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第57回 「艱難辛苦(かんなんしんく)汝を玉とす」

ただただ心の思ったままをつづった「弁理士よもやま話」も、早いもので五五回を迎えた。
有難いことに、約五年の歳月を重ねたことになる。

「一枚の原稿も、一分の話も、とても自分一人のちからではできるものではありません」とは、百一歳の天寿を全うされた禅の高僧、松原泰道氏の言葉である。
まさしくその通りで、自分の思ったことをつづったつもりが、実は、多くの人との出会い、また書籍に源を発していることは多い。
ただ、人との出会いも、また心を打つ書籍との出会いも、単なる出会にとどめることなく、自分なりに追体験し、自分の血や肉として、それ以降の人生に活かすことが、その出会いへの最大の感謝になろうと私は思う。

出会い

さて、つい最近、また、面白技術、面白い人物との出会いがあった。
その技術によると、癌に代表されるいわゆる難病と言われている多くのものが回復し、また、使い方によれば、エネルギー問題や食糧問題も解決できるらしい。
言い方を変えれば、この技術を用いることで、人類は、我々を苦しめる多くの病気から解放され、エネルギーや食糧を心配することもなく、未来永劫、争いの無い心安らかで豊かな生活を送ることができることとなる。

なんと素晴らしいことであろうか。
まさにこの世の楽園の実現である。

「でも、まてよ!」、私は、はたと考えた。
確かに、病気の無い世界、エネルギーや食糧の心配の無い世界は大変すばらしく、多くの人が求めるであろうことはよくわかる。
一方で、「我々がこの世に生をうけた理由は一体何であろうか」と考えると、「?」が頭の中一杯に広がる。
みんなが苦しみや悲しみを何ら経験することなく、幸せいっぱいな人生を送り、次世代に命をつなぐだけのために、この世に生まれてきたのであろうか。

少々宗教めいて恐縮であるが、「われわれはこの世に修行のために生をあたえられ、数々の苦しみを経験して、それによって魂を成長させ、あの世に戻っていく」という考え方があり、私も、このような考え方に賛同する一人である。

私自身はさしたる苦労も苦しみも経験したことは無いが、それでも、平凡な日々の生活を送る中で、生きていくのはまさに魂の修行であると感じることが多い。
そして、その苦しみを乗り越えるところにこそ、生きている真の意味があるものと感じている。

艱難辛苦(かんなんしんく)汝を玉とす

いつもの「致知」には、有名人だけではなく一般にはあまり知られていないけれど、大きな病気や親族の死、事業の失敗など、数々の艱難辛苦に立ち向かい、立派に人生を生き抜いている多くの人々が登場する。
そして、その生きざまは、多くの読者に感動や生きる勇気を与えている。
まさに、「艱難辛苦(かんなんしんく)汝を玉とす」であろうか。
もし、彼らの人生に、病気や不遇、深い悲しみがなかったとしたら、どんな人生を送られたであろうか。
果たして、人に感動を与えるような、人生を送ることができたのであろうか。

仏教でいうところの、生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦 、五陰盛苦 いわゆる四苦八苦に起因する苦しみや悲しみ、世界で頻発しているエネルギーの奪い合い、今もある食料不足による飢餓等々、本当にこのような問題がこの世からなくなればよいと私も心から思う。
が、一方で、そのような苦しみが全く無い世界が、果たして本当に幸せな世界、この世の楽園と言えるのであろうか、とも思う。

加藤合同国際特許事務所
代表・弁理士 加藤 久

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