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第61回「感動多き人生を送ろう」

目の前に見えるもの

人はだれでも、自動車や家など目に見えるものは存在を疑わないが、目に見えないもの、例えば、愛とか、人体の気、幸せ、健康などは、よくわからない、得体が知れないと思ってしまう。

一方で、愛や幸せ、健康など、間違いなく存在し、その存在を疑う者は居ない。
逆に、目の前に見えるものは、本当に存在していると言えるのであろうか。
自動車や家などは、手を延ばし触れれば、確かにそこに物理的な存在を感じるから「ある」のだと言っても、その「感じ」そのものが錯覚かもしれない。
あると感じる感覚は、単に、脳の中に作り出している「状態」かもしれないのである。
文明の発達により、ウイルスなど、昔は見えなかったものが見えるようになることはあるが、いくら文明が発達しても、愛や幸せが、見えるようになることは無いであろう。

当時の私

今から50年も前、高校一年16歳の夏、私のあたまの中に一つの疑問が沸き上がった。
「自分が今見ているこの風景は、他の人にも同じようにみえているのであろうか。今このように考えている自分自身一体なんなのだろうか。目の前の風景は夢の中の風景ではないのか。それが現実のものであることを証明することができるのでろうか。」「一炊の夢」として知られている、立身出世を願う盧生という青年が、夢の中で経験した「栄耀栄華をきわめる自分の一生」は、彼自身にとってなんだったのであろうか。
夢の中にいて、それが現実のことではなく、夢の中の出来事であることがわかるのであろうか。
夢の中で頬を抓れば、夢の中で痛みを「感じる」であろう。

当時の私なりの結論は、「夢と現実の違いを証明することなどできない。ただ、その瞬間、瞬間に幸せや苦しみや悲しみなど感じていること自体は否定できない。であれば、悲しいことも苦しいことも、嬉しいことも、感じたまま受け入れ、そして感動多き人生を送ろう」というものであった。

盧生が見た夢の如く、振り返ってみると私のこの50年はまさに一炊の夢、いやそれよりも短い「刹那」の「幻想」だったようにも感じる。
でも、この50年の間に経験し味わった様々な感情は、それが夢であろうが現実であろうが、私にとって、記憶に残る、かけがえのない貴重な体験である。

新型コロナウイルスの存在意義

話は変わるが、宗教的には、人に限らず、この世に存在するものは、すべて存在する意味があると言われている。
一つの石ころにも、存在意義があるというのである。
わたしもそのように思う。
であれば、200万人を死に追いやった新型コロナウイルスは。
この世にとって、どのような存在意義があるのであろうか。

文明が発達し、ウイルスは見えるようになったが、残念ながら、コロナウイルスが何を思い人類社会に進出してきたのか、その意図を知ることはできない。
強いものが弱いものに勝つという、この世の誠に不条理な原理に警鐘を与えようとしているのであろうか、人類の思い上がりに警鐘を与えようとしているのであろうか、それを徹底的に追求するところに、この難局を乗り越えるヒントがあるような「気」がする。

私は、これからも自分の感性を信じ、自分のこころが正しいと思うことを、ひとつずつ実行し感動多き人生を送りたいと思う。

加藤合同国際特許事務所
代表・弁理士 加藤 久

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