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苦難を乗り越え続けた歴代店主がつないだ148年の暖簾

創業から148年の歴史を刻んできた「博多名代 吉塚うなぎ屋」は、博多の食文化を支える老舗だ。
博多の名店として県内はもとより、県外、海外からも客が足を運ぶ。
150年近い歴史の中で、歴代店主は様々な困難と向き合い、乗り越えてきた。その知恵は、老舗をより強くする力になるようだ。

 

148年続く老舗

吉塚うなぎ屋は明治6(1873)年に德安新助が鰻料理の専門店として吉塚で創業。
創業から148年にわたって博多の食文化の一翼を担ってきた。創業の地は、店名の通り福岡市博多区吉塚である。
創業の経緯については詳しくわからないが、大正時代には既に中洲にも支店を構えるほど繁盛していたようだ。

鰻といえば高級食材だが、5代目店主を務めた現会長の德安憲一氏(以下、5代目)によると、「創業当時も鰻は高級な食材で、現在4、5,000円のかば焼きが2万円ほどしたこともあった」ようだ。
ただ、今のように食事をするだけではなかった。
当時は、料理を注文すると客は湯に入る。
風呂から上がると菓子を食べたり、酒を飲みながらゆっくりと時間を過ごす。
店には菓子職人もいたというから今とは随分と様子が違う。
その間に、店員が那珂川に設置している店のいかだに鰻を取りに走る。
それから鰻を割いて焼くわけだから、鰻を食べるのも半日がかりとくる。
なんとも粋で風情があった。
それほど、鰻を食べるということは特別なことであったということであろう。

3代目(德安憲一会長の祖父)は、鰻を焼かせたら名人といわれるほどの腕を持っていたから店は繁盛し、終戦後は東京(東京駅の八重洲口)にも出店した。
昭和28年には現在の場所に店を構え、平成21年には現在の地上四階建ての店舗(2階・3階)に建て替え、全国から客が訪れる繁盛店として人気を集めている。

苦難を乗り越えた歴史

順調に商売を広げてきたかにみえるが、150年近くも暖簾を守り続けてきた裏には、代々店を継いだ店主が苦難を乗り越えてきた歴史がある。
第二次世界大戦の戦火で店は焼き払われた。
博多区中洲5丁目で再興を図るが、終戦当時の食料不足で鰻も仕入れられない時期があった。
そのため、所有していた船で漁に出る、あるいは、コックを雇って中華料理を出すなどして、店を守り抜いた。

鰻さえあれば名人と称された3代目である。
時間と共に店には客が戻ってくる。
しかし、3代目は、金遣いが派手で数字の管理が不得手だったようで、いわゆる勘定合って銭足らずの状態に陥る。
銀行からは借りられなかったから高利に頼る。
資金繰りはますます悪化し、店を移ることになった。

新たに店を出す場所を探し、現在の地(中洲2丁目)に移ったのは昭和28年のことだ。
「この土地は、紙与産業の渡邉與三郎さんが安く貸してくださったから経営できた。
渡邉さんの支援がなかったら、商売を続けられなかっただろう」(5代目)。

4代目を継いだ父と母は、膨れた借金を返すために一所懸命働いた。
父の口癖は「財産は残さんが、借金も残さん」というものだった。
店が終わると毎日、母が電車に乗って高利貸しなどに返済をして回っていたことを5代目は鮮明に覚えている。
4代目は資金繰りで苦労した経験から、経理など管理ができる人材を入れ企業体質の改善を図り、銀行との取引もできるようになった。
「当時は、地場の銀行からは借りることができなかった。
長崎本社の十八銀行(現、十八親和銀行)さんから融資してもらい再興の道が開けた」という。
この頃の話を先代からよく聞かされていた五代目は、取引銀行が増えた今でも当座預金は十八親和銀行だけに限り、義理を立て続けている。

 

独自の成功法則を追求

3代目は、鰻を見ただけで、その良し悪しが分かったという。
さすがに名人といわれるだけのことはあった。
35歳の若さで店を継いだ5代目は、自分なりの成功法則を見つけるために精進を重ねる。

ある時期、客から「今日のタレは塩辛かった」「今日のタレは色が黒かった」といわれることがあった。
1人の客ではなく、数人の常連客が同じようなことを指摘した。
5代目は、白い皿にタレを垂らし色や味を比べてみた。
色、塩気ともにいつもと変わらない。
ところが、実際に焼いてみると、確かに色や味が違った。

原因を突き止めようと、何カ月も研究を重ねた結果、鰻の脂の乗り具合によってタレのしみ方に違いがあることを解明した。
客が「塩辛い」「色が黒い」と指摘した鰻は、脂の乗りが悪かったのだ。
客の声を真摯に受け止めたことで気づきを得たわけだが、客が気軽にものが言える関係や環境を作ってきた商いの在り方が導いた結果だといえるだろう。

しかし、脂の乗り方は、産地や季節、その年の気候などによっても異なる。
5代目は、さらに何年も研究を重ね、やっと自分が納得できる鰻の基準を見つけた。

仕入れが生命線

見た目や触感で良い鰻だと思っても、実際に割いて焼いてみないとわからない。
吉塚うなぎ屋は、焼いた鰻が店の商品として適しないと思えば客に提供しない。
そこまで徹底する。
それだけに、5代目は「基準をクリアする良い鰻をいかに仕入れることができるかが、店の生命線になる。だから、仕入れ先と自分が求める鰻を選ぶ目線を合わせること」を重視している。

仕入れ先となる卸元の担当者に店の基準を理解してもうため、直接現地を訪れコミュニケーションを図る。
簡単に共有できるものではないから、何度でも会って酒も酌み交わし自分の考えや思いを伝え続ける。
そうやって、五代目が求める鰻を仕入れることができる仕組みができたのだ。

 

知恵を積み重ねる老舗

老舗は長い歴史の中で様々な困難を乗り越え、その繰り返しの中で経営の知恵を獲得する。
そうした経験と知恵が、経営をより強固なものにする。
老舗の歴史には、これからを生き抜く知恵があるといえる。
5代目が独自の基準と仕組みを作り上げたことで、吉塚うなぎ屋は新たに経営の知恵を積み重ねた。
現在、7代目のさやかさんが店を取り仕切っているが、六代にわたって積み上げてきた知恵がこれからの経営を支える力となるだろう。

 

<店舗概要>

名 称 博多名代 吉塚うなぎ屋
創 業 明治6(1873)年
代 表 德安 さやか(7代目)
住 所 福岡市博多区中洲2丁目8-27

TEL.092-271-0700

URL    https://yoshizukaunagi.com/

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