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父より三人の子供たちへ(その②)

私自身、今までの人生に悔いが無いかといわれると、決してそうではない。

が、私は私なりに、今まで結構自分のやりたいように生き抜いてきたし、今も、自分のため、また世のめに自分に何ができるのか必死に考える毎日である。

だから、私が死んだときも決して悲しむ必要などない。むしろ、「父さんもこの世でいろんな経験をさせて頂き、これでやっと、肉体的な苦しみや悲しみから解放されたのだ」と思ってほしい。

死によって、肉体的存在からくる全ての感情は無くなるので、あらゆる苦しみから解放され喜ばしいことでもあるのだ。

 

もう50年半世紀も前になるか、私が高校一年生の夏、ふと、

「今自分がこの目で見ている風景は、他の人にも同じように見えているのだろうか。この景色は、夢の中なのか、現実なのか証明できるのだろうか」との思いが頭の中に浮かんだ。

夢の中にいて、それが夢であることが本当に理解できるのであろうか。

夢の中で、うなされたり、喜びを感じることがあるように、夢の中で、頬をつねってみても、夢の中で痛みは感じるので、夢ではないことの証明にはならないのではないか、夢の中でも、喜びや悲しみ、痛みは、覚醒しているときと同様感じることができるのではないかと思った。

 

そのときの私なりの結論は、「夢と現実の違いは証明できない。ただ、夢であろうが現実であろうが、感じていることは共通である。であれば、夢か現実に捉われず、大きな夢を描き、感動多い人生にしよう」と、そう決めた。

お前たちも一度ゆっくりと考えてみたらよい。

繰り返し言うが、どのような人生になるかは、自分がどのような人生にしたいか、ただただ、それにかかっていると私は思う。

 

ここまでで言いたいことは、「自分自身で自分が思う最高の人生ストーリ」を描くことの重要性である。

そのような権利は、どのような境遇の人にも平等に与えられている権利なのである。

であれば、自分にとって最高の良い人生を描くことである。

 

ところで、話は変わるが、いつも言うように、お金は魔物である。

お金は、食料を買ったり病院に行ったり生命を維持するために絶対に必要であり、また、お金は多くのことを可能にするので、決してぞんざいに扱ってはならない。

その意味で大変大切なものである。

一方で、お金はいくらもってもこれで満足ということにはならないらしい。

むしろ、持てば持つほどさらにほしくなる、そういうもののようだ。

怖いのは、それだけではなく、今度は、持ったお金が無くならないかという新たな苦しみが生じることだ。

お金が、幸せではなく、苦しみを産む原因ともなるのである。

 

ある程度のお金不足は、困難に立ち向かう力を産み、また弱者の気持ちを理解する正しい人間性を培うのに必要である。

逆に、お金の心配がないと、人の心が分からなくなり、ろくでもない不遜な人間になる場合が多い。

下手にお金があると食生活が乱れ、痛風などの病気を自分で作ることもある。

 

公園の父と言われ、学者でありながら倹約と投資で巨万の財産を築き、晩年には財産の殆どを寄付した本多静六氏は、「感謝は物の乏しきにあり。幸せは心の恭倹にあり」という言葉を残している。

「物を求めず、何事にも努力し、心を恭倹(人に対してうやうやしく、自分の行いは慎み深いこと。)に保ちさえすれば、誰もが幸せな人生を送ることができる」ということであろう。

 

お前たちはあまり覚えていないかもしれないが、このことは、まさに、私の父であり、お前たちのお爺ちゃんの生き方そのものだ。

どこまでできるかわからないが、私もそこを目指したいと思っている。

 

加藤合同国際特許事務所
代表・弁理士 加藤 久

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