open

砂漠を緑に変え、豪雨から住民を守る先人が残した治水の知恵

 

異常気象の影響で、九州では毎年のように自然災害に見舞われるようになった。

治水対策は、これからも続く。

様々な技術革新が繰り返されると思われるが、一方で、400年以上前から治水に取り組んできた先人たちの知恵もある。

持続可能な社会を目指す今だからこそ、古の知恵に学ぶことも多いといえるだろう。

 

砂漠を緑の台地に変えた朝倉の山田堰

日本人は、地震や台風、大雨などの自然災害と向き合って生きてきた。

そのなかで、様々な対処法を考案し、自然の力をうまく利用する工夫を凝らしてきた。

その発想は、力で自然を抑え込もうとするのではなく、自然の力をうまく生かしながら折り合いをつけようという考え方が根底にあるといえるだろう。

 

2019年12月、ペシャワール会を立ち上げアフガニスタンで支援活動を行っていた中村哲氏が凶弾に倒れた。

中村氏は、医師として地域で医療活動を行うが、干ばつで荒廃してしまった土地に緑を取り戻そうと用水路を建設した。

 

用水路建設にあたって中村氏は、現地スタッフが自分たちで補修やメンテナンスができる設備であることにこだわる。

その考えを実現するものとして中村氏が選んだのが、福岡県朝倉にある山田堰であった。

山田堰は、江戸時代につくられたもので、水流に対して石を斜めに敷き詰め、激しい流れにも耐える構造で、今でも筑後川の激流を分け、周辺地域に水を供給し続けている。

 

激しい流れに耐え、動力も必要としない。

これなら、アフガニスタンでも通用する。

そう思った中村氏は、スタッフや地域の住人と一緒になってこの山田堰の工法でアフガニスタンに全長25.5キロメートルのマルワリード用水路を作り上げた。

その結果、1万6,500ヘクタールの荒れ地が農地に変わったのだ。

江戸時代の治水の知恵が現代の問題を解決したのである。

 

水不足の町を水郷に変えた掘割

こうした知恵は、他にも残っている。

福岡県柳川市の「掘割」も先人が残してくれた知恵の結晶である。

掘割は今、ドンコ舟に乗って川下りを楽しむ柳川を代表する観光資源として市の経済を支えている。

 

柳川には各所に水路が流れている。

地元では「掘割(ほりわり)」と呼ばれ、柳川城周辺から市街地の家々の間を流れるだけでなく、田畑にも水を運んでいて、その長さは930キロに及ぶといわれている。

 

柳川は、今のように水郷といえる土地ではなかった。

水が不足していた地域であった。

それを、400年余前に川から水を城下や田畑に引き込む掘割が造られた。

それによって、柳川は水の郷とよばれるようになったのである。

掘割の水は、人々の生活用水や農業用水として地域の人々にとってはなくてはならないものとなった。

また、掘割は水路で物を運搬する輸送手段としてもすぐれていた。

 

柳川の掘割には様々な仕掛けが施してある。

まず、柳川の町は有明海に向かって干拓し土地を広げたため、平たんな土地が広がる。

高低差の小さな平野に水をいきわたらせるために、掘割は水路の幅を場所によって変えるなどして、水の流れに勢いがつくように工夫されている。

また、有明海から水が堀割に逆流するのを防ぐ工夫も施した。

有明海は遠浅の干潟で、干潮時と満潮時の水位に六メートルもの差が生まれる。

そのため、満潮時に有明海の海水が川に流れ込む。

そのため、掘割に水門を設けて、水の流れをコントロールできるようにした。

 

水をコントロールして水害を防ぐ

掘割に設けた水門は、水路内の水を調整することで、大雨による水害を防ぐ役割も果たしている。

最近では、令和2年に九州北部を豪雨が襲った。

この時、柳川は観測史上最高の降水量を記録した。

周辺の久留米や大牟田でも豪雨によって床上浸水など大規模な被害にあった。

一方、柳川は床上浸水が二軒にとどまり、周辺地域に比べると、大きな被害を免れたようだ。

 

柳川はこの時、どのような対策をとったのか。

大雨によって大きな被害を受ける可能性が高いという予報を受け、市では大雨に備えて掘割の水門を開けて水路内の水をポンプで海に流すという措置をとった。

満潮時には海に流すことはできないので、干潮時を狙って水門を開けたようだ。

水路内の水量を減らしたことで、大量の雨水をためておくことができるようになった。

そうやって、掘割内に水をためることで、市街地を大水が襲うことを極力避けることができたのである。

 

柳川ではこうして水をためることを「もたせ」と呼んでいる。

もたせの機能を高めるための仕組みも掘割に見ることができる。

 

堀の幅が広いままだと、降った雨水が一気に下流に流れる。

「もたせ」によって、一定の水をせき止めることによって掘割全体で水をため込むことができる。

さらに、掘割の幅は高さによって異なる。

下が狭く上の方は広いV字型の構造になっている。

大雨の際、水をせき止めてばかりいると、今度は上流に水があふれてしまう。

そのため、水量が増えるに従って、流れ出る水も増えるようにV字型に設計されている。

 

水のない土地に雨水をため、川の水を引き込み水に満たされた街を作り上げたのは先人の知恵である。

掘割を整備したのは、初代筑後国主となった田中吉政であった。

田中家は2代で改易となったことから、その後の柳川のまちづくりは柳川藩主として入部した立花宗茂によって引き継がれた、今でも美しい水郷柳川の象徴的存在である。

 

掘割の危機を救った行政マン

このように、柳川の人々の生活と安全を守ってきた掘割も危機が訪れたことがあった。

昭和50年代になると、上水道が普及する。

それまで、堀の水を飲み水などの生活用水として利用していた人々が水道を使うようになった。

使われなくなった堀には、次第にゴミが捨てられる。

不法投棄も増え、掘割はごみ捨て場のような様相を呈し、悪臭を放つようにもなった。

柳川出身の詩人北原白秋もそのような掘割の様子を嘆いている。

 

問題解決のため柳川市は、掘割の大部分を埋め立て、下水溝を埋設する計画を打ち出した。

埋めてしまえば、ゴミや悪臭の問題も解決するというわけだが、この計画に内部から反対者が出た。

都市下水路係長だった廣松伝氏である。

廣松氏は、幼い頃から慣れ親しんだ堀が埋め立てられれば、掘割と共に生活してきた地域の文化が失われてしまうと異を唱えた。

 

廣松氏は当時の市長を説得し、住人運動を起こす。はじめのうちは、「掘割を残そう」「掘割は自分たちできれいにしよう」という廣松氏の考えに呼応して立ち上がる人は少なかった。

自分たちで、掘割を守り続けるということがどれほど大変なことかわかっていたのであろう。

 

堀が埋められてしまえば、元には戻せない。

廣松氏は、必死に訴え続けた。

いろいろなところに出かけては、訴え続けた。

徐々に廣松氏の運動を支持する人が増え、それはうねりになった。

そしてついに、市を動かし埋め立て計画を白紙に戻したのだ。

 

こうして柳川を代表する掘割は守られたのである。

便利さや効率性ばかりを追求し、一見無駄だと思われることを削った果てに、大事なものまで無くしてしまうということはよくあることだ。

先人が残した知恵を時代錯誤などと一蹴するのではなく、改めて考える時期にきているように思われる。

 

よく読まれている関連記事